北浦和の歴史 「地域の歴史を学ぶ 」

平成22年度公民館介護予防事業 / 生きがい健康づくり教室
友 遊 塾

地域の歴史を学ぶ(中山道浦和宿・大宮宿とその周辺)

会 場 : 北浦和公民館
期 日 : 11月10日
時 間 : 午前10:00~12:00 
講 師 : 歴史研究家 青木 義脩氏

講義の様子
講義内容から街道と宿場は関係の深い事を学びました。会場は講義を真剣に聞き入る皆さんでいっぱいでした。

1 中山道浦和宿・大宮宿とその周辺


街道と宿場、市域にある中山道浦和宿・大宮宿の成立とその機能について述べられ、併せて沿線の景観などについてもお話がありました。先ずは、中山道の正しい文字について青木先生よりお話がありました。講義が終わって、家に帰ってから、中には(イ)行が付くのではないか、とか(イ弁)の付けた文字(仲)この文字を使うのではないでしょうか、などなど・・・連絡があるそうです。正しくは、「中山道」だそうです。中山道は正徳6年(享保元年、1716)幕府は(中山道)の文字を(中山道)に統一するよう命じた「宝暦11年岸村村監銘細差出帳」(青山家文書)には、「当村中山道往還附之村ニ御座候」「是ハ中山道往還より悪水落込申候」などとあり「天保6年御伝馬勤方議定書」(木内家文書)でも「一、中山道大宮宿助郷左之村々御伝馬役務方之儀」とあるように、指示に従って正しく記されている。

浦和宿 本陣中山道から3番目の宿駅で、本陣1、脇本陣3があり、本陣は代々星野権兵衛家が勤めてきた。中山道本陣なかでは比較的大規模で、広さは近隣の本陣では、上尾宿につぐものであった。
現在の仲町公園が、本陣の敷地の一部ある。現在ここには、「明治天皇行在所跡」の石碑が残されている。

2 街道と宿場

旧浦和・大宮市は、江戸時代の宿場町から発達した市である。 又浦和市は中山道から発達した市であり、中山道は、調宮、玉蔵院などがあり、それらによって、宿場が出来中心になっていった。大宮は、中山道の大宮宿から発達したものである。

中山道がさいたま市を通っていてそこに、浦和宿と大宮宿があり江戸時代のさいたま市は、東京方面から開けていった町で、さいたま市には、四つの宿場があります。中山道の浦和宿と大宮宿・日光御成街道の大門宿・と岩槻宿です。街道にある、調神社や玉蔵院のあたりから、宿場が出来中心になってゆきました。

浦和橋を渡ると此処からは針ヶ谷村(現在は二つに分かれ、北浦和と針ヶ谷)南北に走っている中山道は、北に行く道ではなく、西に行く道である。だけど、浦和では北に走っている。
中山道は、67宿で、草津宿で、東海道に合流し(草津、大津をいれて69次となる。)京都まで135里34町8間(約533,9km、草津まで129里10町8間)であり、東海道は約495,5kmである。

中山道分間延絵図

現在の政府(地方)江戸時代武蔵の国、しもつけの国、飛騨の国などがありおのおの国に国府がある。
これを府中と言い国を治めていく役人がいた。

北に埼玉があり、左に川崎がある、これには国府がありこれを(府中)と言う。埼玉県には、国府がない。
浦和郷1万石は、天正18年(1590)岩槻城主となった高力清長に預けられ、清長はこれを中村吉照に治めさせ、吉照は、針ヶ谷村に陣屋「北浦和2丁目の三郎山)を設け、年貢は直接江戸の官倉へ納めることになり、吉照は徳川の代官となった。

中村 吉照陣屋跡

現在吉照の奥さんの墓は、廓信寺にありますが、吉照自身の墓はどこにあるのか解らないそうです。(埼玉県文化財保護科)調べ

寛永5年(1628)関東郡代伊那忠治は、氷川参道ないしそれに沿っていた中仙道の一の鳥居から北を地割し、沿道の百姓42を移転させた。 これが後の中山道で、地割を行い、本陣、脇本陣、問屋、旅籠、などの必要な施設が置かれた。「これはさいたま市でも早い時期の都市計画が行われていたと、いえるのです」と、青木先生は説明されました。浦和宿の自然発生的な宿と、大宮宿の計画的に作られた宿とは対照的である。
「中山道間延絵図」に一里塚がが描かれている。江戸から5里は辻村(南区)で、記念碑がある、本来の地は、50mほと北にある。一里塚公園があり一里塚公園があり、一里塚公園の石碑がある。「延絵図」に塚の絵があり、樹木が描かれている。
昭和初期まで形跡があったという。
6里は、浦和橋付近である。鉄道の大踏み切りで撤去された。「延絵図」に塚の絵があり、樹木が描かれている1対2基である。近くの笹岡稲荷社にエノキの大木だあるがこれは、その子孫とも考えられる。

7里目は、大宮宿内にあったが、中山道付け替えのため早くから消滅」したものと思われる。

8里目は加茂宮村(北区宮原)にあった。
「延絵図」に塚の絵があり(1対2基)樹木がある。

*街道にエノキ(榎)を植えた逸話がある。徳川家康は、大久保石見守永安に、よい木を植えるよう指示したが、はっきり聞き取れず、殿様に聞き直す事が出来ず、(余の木・異なる木・エノキ)など迷い、日本中の、一里塚にエノキを植えたのだそうです。しかしこの(エノキ)根の貼りは良く枝は広がり日陰を作り塚の保護と旅人の休息に適していました。
*松並木は、浦和区常盤3丁目付近に見事に残っていた。(大正時代文華堂絵葉書)また針ヶ谷付近を描いた明治40年9月29日付けの福原霞外の素描にケヤキ、茶屋も描かれている。

その他、徳川家康の日光社参に祭してのお話、渓斎池田英泉の版画のお話等二時間に渡り、興味深い、意義ある講義を受ける事が出来ました。、

以上会場に準備された資料、写真など(青木 義脩)先生の許可を頂き掲載させていただきました。

甲州生まれの私には、武田信玄が他国と戦ったこと、信玄個人の人柄などは、書物やテレビなどで学んでおりますが、地域の歴史(甲州街道や,信玄堤、)なども学びたいと、 思いました。(街道)にこの様な歴史があるのには、感動致しました。青木先生有難う御座いました。

北浦和e街編集員 木下