第一回 「うなぎのとれたころ」
第二回 「紅赤の100年(前編)」
第三回 「地域の歴史を学ぶ 」
北浦和の歴史 「紅赤の100年(前編)」
みなさんは「紅赤(べにあか)」という種類のサツマイモをご存知でしょうか?「サツマイモの女王」と呼ばれ川越名産のイモとしてサツマイモの世界ではちょっとした有名なおイモです。なんだ、やっぱり川越のことじゃないかって?いやいや、そうではないのです。ここに「紅赤の100年」という一冊の冊子があります。今回はこの本をガイドに北浦和と「紅赤」の意外な関係をお話ししていきましょう。小中学生なら夏休みの自由研究にももってこい?
サツマイモの基礎知識
サツマイモの生まれはどこ?
さて、本題に入る前に私からみなさんにひとつ質問です。
「サツマイモの原産地はどこでしょう?」
「そりゃぁ薩摩(さつま)のいもだから鹿児島でしょう!」と答えた方は残念ながら不正解。確かに日本にサツマイモが伝わったのは鹿児島(当時の薩摩藩)が最初でしたが、原産地は「アメリカ」が正解!
時は15世紀、あの有名なコロンブスが西インド諸島から持ち帰り、スペイン女王のイザベラに献上したのが世界に広まるきっかけでした。そこからまず、当時スペインの植民地だったモロッコやフィリピンに伝えられます。そして中国や沖縄に伝えられ、薩摩藩が琉球王国(沖縄)を併合したことによってようやく日本に伝わってきたのです。それが江戸時代初期のことですから、それまでの日本にサツマイモは無かったのですね。
忘れちゃ困る?青木昆陽!
次に、「サツマイモといえばこの人!」というくらいの歴史的重要人物がこの「青木昆陽(こんよう)」という人です。8代将軍徳川吉宗の頃、当時の農民達は度々起こる大飢饉によって苦しめられていました。一度飢饉が起これば食べ物が無くなり、大勢の人が飢え死にしてしまいます。
そこへ登場したのがこのサツマイモ。サツマイモは不作に強く、米が育たないような場所でも栽培することができます。また保存食としても優れていたため、江戸幕府はこれに目をつけました。幕府としても飢饉で年貢が減ってしまうのは困りものだったわけです。
早速、青木昆陽は薩摩藩からサツマイモを取り寄せ、栽培方法や料理法を記した『甘藷○』を書き上げ、日本各地へサツマイモを普及させました。浦和や川越でサツマイモが作られるようになったのも、ちょうどこの頃のお話しです。
栗(九里)より旨い十三里半?
ところでみなさんは「栗よりうまい十三里半」この言葉を聞いた事がありますか?若い方にはあまり耳なじみがないかもしれませんね。あるいは、子どもの頃にはよく聞く言葉だったよ、という人も多いと思います。これもちゃんとサツマイモに関係のある言葉なのです。
サツマイモが伝わって少しすると江戸周辺でやきいもが名物として飛ぶように売れるようになりました。そのとき看板に書かれていたのが「栗よりうまい十三里半」というなぞめいたこの言葉。どういう意味だかわかりますか?
サツマイモは甘味が強く、人々の絶好のおやつだったのです。それは栗よりもおいしいものでした。「栗(9里)より(4里)うまい」ということで(9+4=13)13里。それよりおいしいということでおまけの半里をたして十三里半、という言葉遊びだったのです。当時の人々にサツマイモが大人気だったことが伝わってきますね。ちなみに1里は今の3.93kmにあたります。
前編はここでおしまい。え?北浦和が出てこないじゃないかって?あら、そうですね。でも、あせらないあせらない。次回はこのサツマイモと北浦和の意外な関係をお話ししましょう。乞うご期待!
サツマイモの女王「紅赤」!
みなさんは「紅赤」という種類のサツマイモをご存知でしょうか?ぶどうなら巨峰、いちごなら女峰、メロンなら夕張メロンといったように、おなじ作物の中でも、山地や銘柄によって様々なものがあります。それと同じようにサツマイモにも実に多くの種類があり、長い年月の中で品質も改良されてきました。別名「きんとき」とも呼ばれていた「紅赤」は、それまでのいもに比べて皮の赤みが非常に鮮やかで、甘味が強く、てんぷらやきんとんにするには最適なものでした。その人気は絶大で、いつしか「川越いも」といえばこの「紅赤」を指すようにまでなっていました。
明治以降の日本では、数あるサツマイモの中でも「西の源氏」、「東の紅赤」と言われ、関東を代表するいもとして知られていました。「サツマイモの女王」と称されるほどに、その品質は良質で多くの人々に愛されていたのです。
ようやく登場!私たちの街北浦和
>ここで二人の重要人物をご紹介しましょう。「紅赤」の発見者である「山田いち」さんとそれを広めた「吉岡三喜蔵」さん。紅赤はこの二人によって生まれ、世に広められました。おおげさかもしれませんが、この二人なくしては、紅赤という素晴らしいサツマイモには出会えなかったかもしれません。そしてこの二人の住んでいたのは大宮台地の上、木崎村針ヶ谷。「木崎村針ヶ谷」というと・・・今で言えば?そう!つまり私達の街、北浦和なのです!前回から「ここは北浦和のホームページなのに、なんで川越の話しばかりなんだろう?」と思っていた方も多いかもしれませんね。お待たせいたしました。実は、川越いもとして人気の高かった「紅赤」はなんと北浦和が発祥の地だったのです!
それは今から100年以上前の1889年(明治22年)のことでした。山田いちが収穫したサツマイモの中にわずかに7株でしたが、他のいもより格段に色が鮮やかなものがありました。試しに食べてみると非常に甘くおいしいものでした。元来研究熱心だったいちさんは、細いいもを試食して大きいものを来年の種いもとして保存したのです。
三年目に初めて近くの問屋に持っていったときには、あまりにも皮の紅色が濃く鮮やかなので主人が「紅でもなすったのか」と驚いたといいます。味の良さにも驚き、問屋は通常の4倍ちかい値段で買ってくれたそうです。噂はすぐに広まり、苗を分けてくれという人がどっと来ました。兼業農家で育児と畑仕事で手一杯のいちに、そのとき頼もしい助っ人が現れます。それがいちの甥「吉岡三喜蔵」でした。いちのいもに惚れ込んだ三喜蔵は、それを広めるのが自分の仕事であると直観して、いくらでも高値で売れたはずの紅赤を、薄利多売をモットーに身を粉にして働いたそうです。
「紅赤の発見者は山田いち、普及者は吉岡三喜蔵」といわれているのはこのためなのです。
紅赤が食べたい!
それだけ大人気のいもなら私達の食卓にあがっているものも紅赤なのでしょうか?残念ながら答えはNoです。品質が良い紅赤はその分気むずかしいいもで、栽培が難しくどこの土地でもとれるものではありませんでした。現在ではその地位をどこでも栽培しやすく、甘味もさらに強い「ベニアズマ」にゆずり、幻のいもになりつつあります。でも悲しむ必要はありません。100年もの間人気を保ちつづけたこの「紅赤」には根強いファンがいることが一番の財産です。現在でもこの紅赤を残していこうと辛抱強く生産されている農家があります。川越市内の「いも膳」では紅赤をつかったいも料理がおいしくいただけるので、こちらもよかったら訪ねてみてください。
「紅赤ものがたり」青木雅子著/けやき書房
第一回 「うなぎのとれたころ」
第二回 「紅赤の100年(前編)」
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