日一日と巨大都市として成長を続けるさいたま市。東京のベッドタウンとしてここ北浦和も今や10年一昔では追いつかないくらい、街もその姿をめまぐるしく変えていきます。そんな北浦和の原風景。そのイメージをみなさんと共有できることを目指して、北浦和地域にまつわる歴史探訪をお届けしていきたいと思います。
第一回 「うなぎのとれたころ」
第二回 「紅赤の100年(前編)」
第三回 「地域の歴史を学ぶ 」
第一回 「うなぎのとれたころ」
第二回 「紅赤の100年(前編)」
第三回 「地域の歴史を学ぶ 」
北浦和の歴史 「うなぎのとれたころ」
みなさんはこのあたりが「うなぎの蒲焼発祥の地」と言われていることをご存知でしょうか? 「当たり前でしょう?」と口に出た方の意に反して、このことは地元の方以外には耳新しいことのようです。実際、浦和にはうなぎ屋さんが非常に多く、今でもうなぎ消費量は日本一なのです。ではそんな「うなぎのとれたころ」の北浦和はどんな風景だったのでしょう? ここに今回の歴史探訪のガイドとなる一冊の本があります。その名も『うなぎのとれたころ』。中仙道沿いにある武藤薬局の先代、武藤公吉氏によるこの本。明治から昭和にかけての北浦和地域を知るにはとても貴重な一冊です。 |
「公吉っつぁんの頃はねぇ」と武藤哲夫さんは話し始めました。「この辺はみんな“木崎村”だったんですね。」浦和町が木崎村と合併したのが昭和7年(1932年)のこと。その前はこのあたりは木崎村の中の針ヶ谷という大字でした。 「大宮に北袋という所がありますね。あれも“木崎村”でした。南は本太、前地、東は瀬ヶ崎、下木崎までが“木崎村”でしたよ。」村といっても非常に広いもので、そのなかに字という集落があったのです。つまり住所でいうとこの北浦和地域は「木崎村大字針ヶ谷」ということになるわけですね。 |
そしてこの地域の中心といえば中仙道。 当時、それまでの交通機関といえばこの「中仙道」しかなかったわけです。 私達の地域、“木崎村大字針ヶ谷”はこの「中仙道」を中心として栄えてきました。「中仙道は当時、松並木でねぇ。」と語る武藤さん。正直屋のあるあたりから今の市立図書館あたりまで両側に見事な松が並んでいたそうです。 「浦和は中仙道を通る人たちの宿場町として栄えたんだけど、北浦和は農家がほとんどだったね。」松に沿ってある宅地の裏はすぐ竹山。農家は竹を様々なことに使っていたので、自然とそのような景観が生まれたようです。 |
“稲荷山と天神山がこのあたりでは一番景色がよかった”、“雪が降ったときなんか、子ども心にも「あぁ、きれいだな」というような感じが強くしましたね”とは『うなぎがとれたころ』の原文にある公吉氏の言葉です。稲荷山?天神山?きっと今の方には何のことだかわからないのではないでしょうか?
当時この「稲荷山」には稲荷様が祭られていて、その稲荷様がこのあたりを守っている鎮守様だったそうです。その「稲荷山」、今はというとなんと北浦和小学校の運動場になっているというのですから驚きです。その周辺は元々沼地で湧き水がわき、天王川からうなぎが上がってくる場所でもあったといいますからまさに「うなぎのとれたころ」のお話しですね。
また、「稲荷山」にはその昔、岩槻城の出城として、三郎兵衛という役人が住んでいたので「三郎山」とも呼ばれていたそうです。今は盛土によって平らになっているので全く面影もありませんね。今の景色しか知らない方には信じ難い話しかもしれませんが、ほんの数十年前の話なのです。
稲荷山の鎮守様が今どこにあるか心配ですか?今は双恵幼稚園の敷地に天神様として祭られていますのでご心配なく。最初の引用文は、その天神様のいる「天神山」と「稲荷山」、この2つがこのあたりで一番景色がいい場所だったということだったのです。どんな景色が見えたのでしょうね?
北浦和駅開業は昭和11年(1936年)。京浜東北線の開通はその4年前の昭和7年(1932年)で、当時は「省線電車」と呼ばれていました。今から70年ほど前のことになります。浦和駅と与野駅は既にあり、中間に駅を欲しいと本太と針ケ谷の共同で請願してできたのが北浦和駅でした。どちらも自分の方へ近い場所に駅を作って欲しいということで色々ともめたそうです。
では決め手となったのは何なのでしょう?当時、浦和橋は踏み切りでした。陸橋を作って渡すには鉄道を掘り下げなければなりません。坂ができた途中で電車をとめることはできないということで、針ケ谷のほうへ寄った現在の位置に決まったということです。
駅ができると街も姿を変えていきます。浦高通りは岩槻街道といって、もとはこの辺りから岩槻に抜ける唯一の道でした。駅へ通じているのではなく、パーミンダイゴウの裏を通っている細い道が当時のなごりです。当時の面影をわずかながら垣間見ることができるのは、道の脇に立っているほこらに祭られているお地蔵様の姿です。時を越えてこの地域を見守って下さっているのですね。今ではその道には「ポテト通り」なんていうかわいい名前がついているというお話しです。
「ほら、あそこ逆行くと馬場通りでしょ」と哲夫さんが言葉を続けます。それは今のクイーンズ伊勢丹横の道。馬場通りといって、三郎兵衛やその家来たちなどが馬の調教をした武士たちの道でした。曲がっているのが普通だった農道ばかりのなか、ひと筋まっすぐな線が見えるのは馬が走る道だからなのですね。鉄道が通り沼地や山は時を経るごとに姿を消していきますが、少し歩みをゆるめてみると普段は気づかない北浦和の在りし日の姿が垣間見えるのではないでしょうか。
今回協力していただいた、武藤幸吉氏のご子息、武藤哲夫さん。 今回の写真は全て武藤さんからご提供いただきました。 貴重なお写真と楽しいお話し、ありがとうございました。 |
第一回 「うなぎのとれたころ」
第二回 「紅赤の100年(前編)」
第三回 「地域の歴史を学ぶ 」